ritsu-kokoro’s blog

日々の思いを綴ります。

晴れた内子と大洲

大洲と内子にお墓参りの1泊2日の旅をして来た。

松山空港 から大洲の宿泊先からに着いた時には、翌日も雨模様の予想だった。

翌朝も曇り空で傘必携な感じである。

従兄弟の息子さんの運転で内子のお寺に着き、叔父の奥さんのお墓、その隣にある叔父の両親であり、私の祖父母のお墓、その隣にある祖父の両親のお墓、その隣にある祖父の祖父母のお墓のお墓参りをした。

その時間頃から天気予報に反して空は晴れ出し、光が射し込む。 まるでお墓に眠るご先祖さまが喜んでいる様にも感じた。

それからの空は青空が広がり、3月の様な陽気だった。

暖かな1月のせいか、お寺の梅の花もほころんでいた。

それから親戚の大森和蝋燭のお店に寄り、大洲の従兄弟の家で昼食をごちそうになった。

私はここの和蝋燭の光がとても好きだ。

そして松山空港まで車で送ってもらった。 みかんジュースで喉を潤して、伊丹行きに搭乗。 帰りは時間感覚として、とても早く着いた気がした。

亡くなった母が、お墓参りに行くと、心が清々しくなると言っていたけど、本当にそんな気がした。 それに今回、内子のお墓参りしていると、光が差し込み、それまで雨の降りそうだった空が晴れて行く。故人の気持ちが光になって降り注いでいる気がした。

私もいつかあの世の人になったら、お墓参りに来てくれた人に光や、青空でお礼を言いたいなと思いました。

お墓参り

雨の大洲

昨日、伊丹から松山までANAに乗り、空港バスに乗り継いで伊予大洲駅に着いた。 大洲在住の従兄弟の息子さんが車で迎えに来てくれて宿泊先に到着。 玄関には私の大好きな蝋梅が香っていた。 宿泊先の近くの従兄弟の家で仏壇に手を合わせ、コーヒーをいただいた。 一昨年の7月7日のの水害で床上浸水となり、かなりリフォームしたという。 1.8mの基礎の土台がある家だから最初は大丈夫と思っていたらしく、災害に遭っても、うちだけは、私だけは大丈夫という心理があり、避難所にも行かず、2階に親戚が集まり、孫達と笑っていたという。 気がついたら、とんでも無い浸水になってあたり一面海のようになっていたとか。 そういう心理は確かにあると思う。 いろいろあっても自分だけは助かるという気持ち。

それでも、翌日には水道復旧し、いろいろな人の助けもあり、従兄弟が亡くなったばかりで引きこもっていた従兄弟の奥さんもあれこれ片付けに追われ、お嫁入り箪笥も2つ、思い出のアルバムもいろいろなその他の家具も皆捨てたと言っていた。浸水被害で捨てざるを得なかったという事だ。 リビングのフローリングは大丈夫だったらしいが、畳はすぐ浮いたという。 当時は岡山の被害が目立っていたが、愛媛も酷かったのだと知る。

そういえば、3年前に伺った時は、仏壇は床の間のある和室にあった。今はフローリングの洋室になっていた。

それから、みんなで旅館に戻り、5人の子供を入れてみんなで12人の夕食会。 お墓参り目的で急に来たのに、愛媛の親戚みんなで会いに来てくれて嬉しかった。 大洲の親戚は、皆、仲が良くて温かい。

明日は、大洲のお寺に伯母と従兄弟、そして内子のお寺の祖父母と叔父の奥さんのお墓参りに行きます。

雨の大洲

愛媛の親戚

歩くのはしんどいけれど

日本滞在中の叔父と行動を共にする事が多い。

昨日一昨日と箕面で一泊二日を共に過ごす。

朝は箕面の滝迄散歩。 山道、石段、結構歩いて、10000歩超えとなる。

普段から滝にはよく行っていたが(車で近く迄行ってから)、箕面観光ホテルから歩いたのは初めてだった。 歩いても、箕面駅から昆虫館止まりだった。

昨日は、途中工事中などがあり、普段の滝道が通れず結構キツイ山道を歩く事になる。 登り坂、長い石段の上り下り。 51才のいとこはスイスイ歩く。 88才の叔父も普通に歩く。 普段から楽なお散歩程度しか歩かない私は、内心フーフーしながら歩く。

叔父から 「大丈夫?戻ろうか?」と声をかけられ、 私は「大丈夫。」と答える。 従兄弟は私のバッグを持ってくれる。

私の持ち物はスマホひとつとなる。

歩いているうちに冬とはいえ日差しもあり、暑くなって来て、コートも脱ぎ、マフラーも取りたくなったが我慢して、叔父の後に続く💦

滝に到着!

帰りは、叔父も目が少し霞み、二重に見えたりすると言い、私は今来た道を帰ると思うとゾッとして、体力有り余りのいとこは、更に厳しい道で戻りたそうだったが、タクシーを呼びホテルに戻った。

歩くのはしんどかったけれど、元々山男の叔父とはいえ88才の高齢になっても、私を気遣い、時には手まで引いてくれる心優しい紳士な叔父を見習い、私も日々なるべく歩きたいと思った。

しんどかったけれど、途中の川沿いの景色もいいし、歩いて汗をかいたのも久しぶりだし、いつも楽して行ってる滝がまともに歩いて到着する気持ちも知る事になり、私にとっては達成感もあり、心の充足感を感じました。

歩く事

箕面の滝

MASA

TOSHIO

箕面の温泉で一泊

日本に来ているの叔父と従兄弟と私で箕面観光ホテルで一泊した。

叔父達は茨木市からシャトルバスに乗って、私は近くの自宅からオレンジゆずるバスに乗って。 ロビーで合流!

スパーガーデンで早めのランチの後、岩盤浴へ。 従兄弟はサウナ系が苦手の様だ。 私は調子に乗って、那智黒の石の上でウトウトした後、部屋を移り、ロウリュウという熱ーい体験までしてみた。 その後は大浴場へ。

そろそろチェックインの時間なので、再びロビーへ。それぞれ部屋に落ち着く。 私の部屋は普通の部屋だが、叔父と従兄弟の部屋は眺望も良く広くて とてもいい部屋!

程なくして息子も来て、 4人で 叔父がアメリカで買ってきてくれた美味しいカリフォルニアワイン🍷やビールを飲みつつ、これからの人生について語り合った。 血の繋がった4人が話し合う。 正義感の強い知的な叔父。 自分なりに解決方法を模索する明るくてナイーブで、アーティストな従兄弟。 わかりやすく冷静に状況説明する息子。 感情の揺れ動く私。

共通点は信頼し合っている事。 そういう安心感がある。

こういうのも、人生会議なのかな。

2時間位過ぎて、夕食バイキングの時間になった。 息子は、お嫁さんの待つ自宅へ、私達3人はバイキングへ。

その後、部屋で休んでから天空風呂に行く予定だったが私は寝てしまって気づいたら夜中💦 叔父達は天空風呂に行ったのかな? 部屋にシティービューの素敵なお風呂もあったけれど。

私は、早朝になったら屋上の天空風呂に入ろうと思っている。

チェックアウトしたら、従兄弟は 滝を見に行きたいらしい。

箕面温泉

大江戸温泉物語

人生会議

奈良という街

急なお誘いがあり、奈良に一泊旅行して来た。 誘ってくれたのは奈良在住のいとことその旦那さん。アメリカから帰国中の叔父と叔父の息子である従兄弟と私の3人で、奈良へ向かう。 久々の近鉄特急に乗り、久々の奈良へ。

行基の像のある噴水で待ち合わせ。

そして、平城京跡へ行こう!と言われて、いとこの旦那さん運転の車で平城京跡の朱雀門、そして大極殿へ。 ただただ広い。 朱雀門、大極殿以外に、周りに高い建物も無く いにしえ を彷彿とさせる。

710年遷都。

なんと素敵な平城京、泣くよ鶯平安京、いい国作ろう鎌倉幕府。等の昔覚えた年号覚え言葉が浮かんで来る。

1310年も前の都がここにと思いを馳せる。

柱もとても太い。

空を見上げたら、限りなく広く感じる。

中3の頃、道徳の授業で、先生からの 「どんな時にしあわせを感じますか?」という質問に、 「広い空の下を歩いている時です。」 そう答えた私。

その時と変わらず、平城京跡の広い空の下を歩く私は、確かにしあわせ感があった様に思う。

それから案内してくれたのは、かの奈良ホテルでのランチ。 皇族の方々やチャップリンが訪れ、アインシュタインが弾いたピアノもあった。 照明や窓ガラスの質の良い古さもいい。

食事は、ちょうど今、奈良女子大学の学生さんとシェフがコラボした内容になっていて、とても美味しかった。

食事の後は東大寺へ。

そして宿泊先のホテルフジタ奈良へ。

よく歩いて、お日様にもよくあたったせいか ぐっすり眠れました。

翌日は、叔父が日本滞在中用に借りた携帯に、いつものポケットWi-Fiではなく、羽田で勧められてsimを購入したけど、具合が悪く、iPad、他のスマホにも上手く繋がらない等、困っていて、叔父は、奈良へ行く前日にも実家のある茨木市のAUに行っても、イオンにあるSoftBankでも解決しなかった為、これから伊丹空港で訊こうという事になり、 JR奈良発の伊丹空港行きバスで大阪国際空港へ。

でも結局、伊丹空港のインフォメーションでも、羽田空港でないとわからないと言われ、適切な案内が出来ない様子なので、 新たにWi-Fiを借りる事になった。 ちょっと不満ながらも解決となる。

羽田空港で叔父に、ポケットWi-Fiよりもこちらがいいと、simを勧めた人に、がっかりする😞。

そして帰り道、モノレールで私は千里中央、手作り得意な叔父と従兄弟はコーナンによるらしくそのまま乗って行った。

その夜も熟睡出来て、今朝になります。

鹿🦌がたくさん闊歩する奈良という街。

お寺もたくさんある奈良という街。

高い建物があまり無く、平面的な拡がりを感じる奈良という街。

空が広く見える奈良という街。

奈良に行ってよかった。

奈良

平城京

奈良ホテル

東大寺

鹿

1995年、平成7年から25年

今、1月17日の早朝である。25年前の早朝、当時、豊中市の自宅マンション、11階に居た私。家がシェイクされた様に揺れた記憶がある。前日から作っていたおでんを入れた寸胴鍋がキッチンの床に落ち、食器棚の食器も床に落ち、本棚は倒れ…。 まずは子供達の安全を確認。玄関ドアを開放。自宅内を靴を履いて歩く。 隣の家に行き安全確認をし合う。

やがて落ち着いた感もあり、当時小学生だった息子は登校。

ところがTVでニュースを見ていると、段々と段々と惨憺たる神戸の街の被害状況が映し出され て行く。

あれから25年経過した。

あの年1995年は、その後も地下鉄サリン事件があった。

プライベートでは、同じ年4月、母が他界した。

あれから25年生きて来た。

何を支えに生きて来たのであろう。 父の存在。父もその6年後に他界した。 夫や子供達の存在。それは確かだ。

自分自身の心は強いのか⁈

生きて行くと色々な事に遭遇する。 死んでしまうと、脳も無くなり、お骨になり、いわば心も無になる。 でも記憶は? でもこの思いは? 本当に消滅してしまうのか? これは死んだ後にしかわからない。

私の人生時間はあとどのくらいあるのだろう。

人生

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夕食は5人でおでん

昨日も実家に行き、みんなでおでんを食べた。 みんなとは、夫、叔父、従兄弟、義妹と私の5人だ。 義妹が15時過ぎから仕込み、私が北海道十勝のじゃが芋をたくさん持って実家に着いたら、お鍋2つで煮込んでいた。 妹が「大根を買い忘れた!」と言うので、私は近くの業務スーパーに。 その場所が、高校時代の通学路の途中にあるので、懐かしく歩く。

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業務スーパーの前には、懐かしい ぶらんこもそのままに中央公園も変わらずある。

高校時代の制服姿の自分が彷彿となる。ぶらんこに乗りながら友達といつまでも話していた事。 その場所から見えた先輩に挨拶した事。四つ葉のクローバー探しもよくしていた事。………。

業務スーパーの店内では、立派な大根が安く売っていた。 更に、蛸、糸こんにゃく、厚揚げ、辛子、茜霧島という焼酎とアサヒの缶ビール2缶も買って帰宅。

煮込むお鍋が3つになり、キッチンがおでん屋さんみたいになる。

17時半頃には ほぼ出来て来たが、味を染み込ます為に一旦火を止め冷ます。

再び温めて、18時半過ぎに夕食開始。 庭つながりの隣の家に居る叔父を呼びに行く。

「いただきまーす!」 夕食が始まる。

美味しい! みんな次々に食べる。 程なく従兄弟が到着。 関空バスがあまり好きではなく、関空特急はるか を乗り継いで来たという。 アメリカ育ちのせいなのか蛸は苦手の様だが、その他は美味しそうに食べる。ビールは、もちろんアサヒビール。亡き父や、叔父の父であり私のおじいちゃんである祖父が勤めていたのがアサヒビールだからだ。 そして焼酎の水割りも好きそうである。 時差のある旅路の疲れか到着の安堵からか少しして従兄弟は眠くなりお開き。 「ごちそうさま」

祖父 祖母 父 母 叔父の妻、そして弟の存在はもうこの世には無い。けれど温かいおでんの夕食に集う5人の笑い声は届いただろうか。

楽しい夕餉だった。

おでん

叔父と従兄弟